社名 | 田名部神社 |
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社号 | 海辺總鎮守 北郡總鎮守 示現太郎大明神 |
祭神 | 昧耜高彦根命(あじしきたかひこねのみこと) 誉田別命 宇曽利山大山祇大神 管下神社大神 |
当下北半島總鎮守田名部神社の創立年代は元和二年(一六一六)の類焼のために不明であるが、康永四年(興国二年・一三四一)の鰐口が残されている。
寛永十二年(一六三五)盛岡城事務日記によれば、当大明神は関東宇都宮二荒山より万民守護のため宇曾利山に御飛来、大平村荒川一本松に鎮座のところ、二十二代先別当小笠原丹後霊夢により田名部村に動座し、神領百石を有し海辺總鎮守・北郡總鎮守・田名部大明神と尊稱され、柳町の高台に鎮座していたが、元和二年に社殿記録等を焼失し明神町に動座している。
下北半島は平安鎌倉時代より明治十一年明治政府により郡制が施行され奥州南部北郡が上北・下北の二群に分離されるまで、田名部や田名部通と稱していた。
慶仁のころから天下はおおいに乱れ、北郡各地には南部氏にされるまで、小笠原・蠣崎・菊池・工藤・安宅・新谷・広瀬の豪族がいたが、根城南部氏の統治により蠣崎氏は松前に移り、工藤氏は根城南部氏の籍に入り、安宅・広瀬氏は藩命により三戸の切谷村に転じ、小笠原氏は民に帰し現在に至った。小笠原には、宮内・宮田・坂本・菊池・葦谷・赤星等の一族郎党がいた。
宮田勝盛は小笠原磐美の祖で、射術の達人で、南部二十九世重信公、八戸南部始祖長房公の御弓の御師範であった。
田名部神社は田名部通り總郷百ヶ村の總鎮守で田名部通りには、本村三十四ヶ村支村六十六ヶ村の村々があり、田名部町を中心に関根から北を北通り大平から西を西通り、現在の東通村は東在と稱し、根城南部氏が統治していたが、寛永四年二月(一六一七)宗家南部氏の懇望により根城氏は田名部通りを宗家に譲渡し遠野に移った。
宗家南部氏は田名部町に代官所を置き、田名部通の村々を支配した。
当神社は歴代南部公を始め庶民の崇敬が篤く、大祭には南部公代参としての田名部代官参社のもとに祭典が執行され祭典の開始と終了は早馬で盛岡の本藩まで報告された。
田名部通り本村三十三ヶ村からは、それぞれの町名を記した燈篭が献燈され、大畑町は延享元年(一七四四)、川内町は安永六年(一七七七)に町名を許されていた。
この大畑と川内の大燈篭は三十三燈篭の双排といわれた。
江戸時代の神輿渡御行列帳に見える山車、神楽
山車 横迎町 町印 稲荷山(豪川組)
小川町 町印 猩牲山(義勇組)
柳 町 町印 大黒町(共進組)
本 町 町印 蛭子山(明盛組)
新 町 町印 救世堂(新盛組)
栗山大神楽―――目名大神楽
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